協栄ジムの初代世界王者海老原博幸選手。恵比寿のとんかつやのオーナー金平正紀氏(協栄ジム創設者)、コックを務めていた山神淳一氏(山神ジム会長)、出前持ちの海老原選手のトリオが、繁盛していたとんかつやを売り払い、そっくりジムに変身。海老原選手の才能に賭けたというのは有名な話。
ボクシングを始めてすぐにスパーリングをやらせたのは、「早くあきらめて店に専念してもらいたかった」は本音だろう。
金平会長(先代・以後同)は練習開始3日目のスパーリングの感想を、自らの師であった野口ジム・野口 進 会長に恐る恐るたずねた。
「ウーン、土方と魚屋のケンカだね」(~~)
そして続いた言葉は、「お前、新人王に出ろ!」
海老原選手は初めてグローブを握って20日間の練習でプロテストに合格。東日本新人王決勝戦では、原田政彦(ファイティング原田・笹崎)選手に敗れたが、素人からボクシングを始めて4年目に、ポーン・キングピッチ(タイ)を初回KOし、世界の頂点を極めた。
この王座はタイでのリターンマッチで奪い返されるのだが、海老原選手は「このままおめおめと日本のリングには上がれない。再起戦は海外で強いのとやらせてくれ。それでなかったら、このまま引退する」と、金平会長に懇願。
誇り高く、気の強い大先輩でした。しかし、茶目っ気もたっぷり。
「海老原さんがわしに言うんよ。会長のところへ行って、もう、海老原がもうボクシングやりたくないって言って困ってると」(;^_^A
「わしも困ったふりをして会長のところ行って、じつは海老原さんがって言うたんよ」
「そしたら会長もビックリしてのう」
「山村、これで何かうまいもの食って元気出させろって、こずかいくれたんよ」
「うまく行ったなァ、山村」(^O^)/
「それからも、ちょくちょく海老原さんが・・・って会長のところに行かされてのう。だけど、会長もだんだんわかって来て、相手にしてもらえんようになったわ」
お話ししてくれたのは、1962年の大晦日のチャチャィ・チオノイ(タイ・後の世界王者)戦後、海老原選手と一緒にファイトマネー全てを競馬ですられてしまったという思い出を持つ山村若夫大先輩。
「フィリピンあたりの選手とやってもギャラは100万円あった」(海老原選手)という、古き良き時代でした。
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