「スタンレーさん、昔は金平会長(協栄ジム先代)と、米倉会長は仲良かったんですよねェ」('-^*)/
「ソ、ソウネ」(;^_^A
協栄ジム金平正紀先代会長(以下同)と、ヨネクラジム米倉健司会長は共に1934年生まれ。オリンピック選手からプロ転向。東洋バンタム級王座を獲得した米倉選手が引退しジムを創設。目標としたのが同学年の金平会長である。
米倉会長がジムを開設した1963年。金平会長は海老原博幸選手を世界フライ級王座に押し上げた。プロボクシング協会が二つに分裂した時も二人は行動を共にし、リカルド・アルレドンド(メキシコ)の持つWBC世界Sフェザー級王座挑戦権は、ノンタイトル戦で勝った上原康恒選手がタイトルマッチを確約されていたにもかかわらず、柴田国明選手に「どうぞ!」と譲られた。
「あの時、僕、困ったのよ!」(^_^;)
イトウ先生とお話していると、時代の流れがよく見えてきます。(^o^;)
1970年4月15日、後楽園ホール。日本フェザー級王座決定戦は、同級1位柴田国明(ヨネクラ)選手と、前年のハワイ遠征でたくましく成長してきた2位桜井保男(協栄)選手の顔合わせ。プロモート権を持つのはランキング上位のヨネクラジム。
提示された桜井選手のファイトマネーは30万円。決定戦が決まったのが1ヶ月前。金平会長はあいにくと渡米中である。しかし帰国すると、「それでは安すぎる。もう少し色をつけてやらないと桜井がかわいそうだ」とクレーム。
だが、交渉はまとまらない。米倉会長は万一に備え、ピンチヒッターの韓国人選手を用意していたほど。
そして迎えた当日計量。結局、金平会長の押しがものをいい、折れた米倉会長は桜井選手のファイトマネーを倍額の60万円に上げることで落ち着いた。ちょっと今ではありえない話しですね。('-^*)/
試合は両選手ダウン応酬の好ファイトの末に最終回、柴田選手がKO勝ち。早くも「今年のベストファイト!」の声が上がったほどのスリルある戦いとなった。大喜びのファンは、「入場料が安いと思ったのは初めてだよ!」。
敗れたとはいえ、桜井選手の頑張りは大いに称えられ、直後のランキングでは1位に押されている。
これは試合内容を考慮されてのもので、現在のようにタイトル戦で敗れれば一気にランク転落というスタイルとは違います。さらにこの日は、プロテストが観衆の前で公開され好評を得ている。
さて、試合前大いにもめた金平、米倉両会長であるが試合後は、「いやー、いい試合だった。もう一度やろう!」とガッチリ握手。
「だけど桜井っていうのは、すごい根性してたなァ。こんなにスカッとしたのは久しぶりだ!」
試合直前にファイトマネー倍増。タイトルへの執念もさることながら、桜井選手は「ここまでしてもらったら」という気にはなりますよね。金平会長はその辺のところが最高にうまかった。
柴田選手にグローブをつけるイトウ先生(ハワイ・リング)。
その後、米倉会長はスタンレー・イトウ=サム・イチノセのラインで、柴田選手、ガッツ石松選手の世界王者を誕生させていく。
柴田選手の世界戦には金平会長もハワイまで応援に行くほどでしたから、「昔は仲良かったんですよねェ」。
昔は・・・のことは、機会が出来ればということで、お待ちください。(^^ゞ
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