8日、両国国技館。WBC世界バンタム級戦 をメイン格に、同時に開催されたフライ級 、Sフェザー級 のタイトルマッチは、どれも素晴らしい試合ばかりで、あらためてボクシングの良さを教えてくれた。
世界タイトルマッチが3試合とあって前座選手の控え室は、ひとつの支度部屋に赤、青コーナー選手が呉越同舟。これから戦う相手が、目の前にいるのは互いにやりにくい。
この日の予備カードでデビューを飾った阿久津光生(協栄)選手。隣は先にデビューを果たしている実兄・朋生選手。弟の試合を前に、「緊張してきた!」と大いにうろたえ状態。汗かきまくりのTシャツ姿であります。「自分でやる方が楽ですね」。f^_^;
「さっき谷津さんと話してたんですよ」
「エッ~、谷津君もハゲになっちゃったのかよ~」(大竹マネジャー)(^O^)/
「それは、しょうがないですよ」(^o^;)
1978年10月26日、互いにデビュー戦同士で、私とグローブをあわせたのが谷津弘之(帝拳・右)選手。
イヤァ~、お互いに齢を取りました。こんなにゆっくり話したのは、試合後のシャワー室以来。
元日本ライト級1位の谷津選手は、「まだ中学生のときから、プロの、それも10回戦の選手をスパーリングで翻弄し、倒してしまうほどの、「天才」と呼ばれたボクサーだった。」(田中誠一 拳雄たちの戦場より)。
「あの子が16歳にならぬ頃このジムに現れたように、あの子が素晴らしい足腰と、スピードの持ち主であったように、いま私の前に「もうひとりのあの子」が姿を現したのだ。素質もあの子に劣ることはない。この子がいつか帝拳にもう一度春を呼び戻してくれるかもしれない。その日まで、わたしはこのジムを守っていかなければならない義務がある。」
これは、沢木耕太郎氏の作品『ジム』にある帝拳ジム長野マネジャーの言葉です。谷津選手は、それほど大きな期待を受ていた。
谷津弘之選手。
そして、「15歳で磯上(修一)選手を圧倒した記事を、テレながら見せてくれた仕草が忘れられません」と、とみぃさんから聞かされたのは最近のこと。「もっと早く教えてくれよ~」。(^^ゞ
自分の運のなさを改めて感じたのでありました。(ノ_・。)
「浜田さんが世界王座を奪取した時、セコンドに付いていたんですよね。あの時、私はレネの側にいたんですよ」(;^_^A
電撃的KOで世界王座を奪取した浜田剛史(帝拳)選手は、控え室に帰るなり「よかったな」と谷津選手に声をかける。二人は時を同じくケガで不遇の時代を過ごしていた。
1980年、ルペ・ピントールと私。
現在は「一番下の息子(20歳)に教えながら、内装関係の仕事やってます」と谷津さん。
「それはいいですねェ。うらやましいです」
「息子さんはボクシングさせないんですか?」
「家は野球ばっかり。長男はジムに通ってきたことありますが、根性なしで今は土人のように顔に穴があいています」(><;)
一緒に来てた友人も、大竹マネジャーの「マウスピース作っとけ」の一言に身の危険を感じ、すぐに退散。(^^ゞ
「試合のことは昨日のことのように覚えていますよ」
「また今度ゆっくり話しましよう」(^O^)/
素晴らしい両国国技館でした。
応援、深く感謝です!→
【ブログ・TOP】