デビューから3連敗。「普通ならやめるでしょ」という微妙なところである。太田涼介(協栄)選手は、デビュー2連敗の後、一時帰郷。ボクシングと縁を切ったはずだったが、先輩佐藤洋太(協栄)選手の世界王座獲得で心が動いた。
再び上京。昨年10月、1年7ヶ月ぶりの試合で東京国際フォーラムのリングに上がるも、また負けた。これで3戦3敗。
太田選手。
ホントに暗い試合後でした。(><;)
「今度は大丈夫です!」
「ホントかよ?」(^^ゞ
そして昨日、4戦目の初白星を目指し、太田選手は後楽園ホールのリングに上がった。笹山俊次(五代)選手との試合は、どちらが勝っても初白星というマッチメーク。
試合開始ゴングが鳴るや、太田選手がその言葉通り先制攻撃。やる気を感じさせた。
「今日は今までで一番良いよ!」
そして第2ラウンド。攻める太田選手、これは「一気にいけるぞ!」という展開。刹那、笹山選手の一発が太田選手のあごを襲い形勢逆転。相手にしがみついて必死にダウンを免れようと、初白星への執念を見せたが、ここまで。
「あそこまでいって、まさかの結果になっちゃたな。でも、今までで一番良かったよ!」
記念撮影に収まる笑顔の勝者と、ただうつむくだけの敗者。目はうつろだ。
1977年。映画『ロッキー』が大ヒットを続けていた。世界王者相手に、「15回終わるまで立っていられたら」と猛トレーニングに励み、奮戦する無名のボクサー、ロッキー・バルボア。最終回終了ゴングが鳴った後のエンディングには、強い感動を覚えたものです。
この年5月5日、後楽園ホールのリング上では、まさに映画『ロッキー』さながらの光景があった。
その主役は熊本ジム所属のフェザー級、高口(こうぐち)裕司選手。
デビュー戦にこぎつけるまで2年間かかった。しかし、初戦から3連敗。「もうやめた方がいい」の声をさえぎり、努力を続けた高口選手は、4戦目でようやく引き分ける。
続く5戦目も引き分けたが、次戦から努力が一気に実を結び5連勝を記録。勇躍A級のリングに上がるが、再び壁にぶつかり3連敗。「ここらが限界。よくやった」の周囲の声は、無責任なものではない。
2歳の時、小児麻痺を患った高口選手は下半身の発達が遅れた。特に右足は、左足より三回りも細い。右足を引きずっての小、中、高校生時代は、「みじめな思い」の連続だったという。
しかし、ここで一念発起。「むずかしいことの方がやりがいがある」と、ボクシングジム通いをスタートさせる。しかし、入門申し込みを受けた熊本ジム・明地会長は、「練習させること自体考えた」。
高口裕司選手。
右足が不自由な練習生は、最初100メートルの距離を走ることもままならなかった。デビューまで2年間を擁した原因は、ロープや階段の昇り降りなどで足腰を鍛え、普通に走れるようになるためだった。
プロボクサー高口選手の夢は、ボクシングのメッカ後楽園ホールのリングに上がることと、日本ランキング入り。果たせるかな、10回戦3連敗目となった日本ランカー、ジャガー関野(草加有沢)戦ではダウンを奪うも判定負け。
顔を腫らして帰って来た息子に、母は「もう、やめてくれ」と泣いた。しかし、高口選手は夢をあきらめない。
そんな無名ボクサーの執念に心を動かされたのが、斉田ジムの斉田直彦会長。「東京でチャンスを作ってやろう」。
関野戦から2ヵ月後の5月5日、斉田会長のはからいで、高口選手は初めて後楽園ホールのリング登場。日本フェザー級6位にランクされる後村則和(ひばりヶ丘)選手との10回戦がセットされた。
初回、いきなり後村選手に打ち込まれピンチを迎えたが、あふれる闘志で盛り返す。そして6回には得意の右でダウンを奪った。だが、強打の後村選手=10勝(5KO)6敗1分=も一歩も譲らない。
試合は激しい打撃戦。9回、高口選手はスリップダウン。押されれば倒れやすいのだ。「このまま試合を投げようか」という思いが、一瞬頭をよぎる。
しかし、立ち上がった日本のロッキーは10回を戦い抜き、2-1ながら「勝者、高口」のコールを受ける。内田正一主審は、高口選手の手をあげた。
多くのボクシングファンは感動の涙を禁じえなかった。素晴らしいファイトを見せてくれた勝者は、「夢が二つも同時にかなって、こんなにうれしいことはないです」と、胸を詰まらせた。
「あの努力には本当に頭がさがった」(明地会長)
「あの姿を見たら、五体満足で怠けてる奴も反省するだろう。僕の役目も終わったよ」と語った斉田会長の想いは、現代の選手たちにも通ずるだろう。
地方ジムの選手が日本ランク入りするのは至難の時代。
”日本のロッキー”は、努力で夢をかなえた。
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