1967年3月28日、ヒューストンの選抜徴兵本部に出頭した世界ヘビー級王者モハマッド・アリ(米)は、米陸軍への入隊を拒否。直ちにWBAと、WBA非加盟で世界王者を認定していたEBU(欧州ボクシング連合・WBC加盟)、NYAC(ニューヨーク州コミッション)は、王座剥奪を発表。
6月10日、WBAはアリの王座復帰要請を却下。20日、兵役拒否によりアリは懲役5年、罰金1万ドルの有罪判決を受ける。前王者は直ちに控訴の手続きを開始したが、世間は「非国民」、「反逆者」とののしった。
WBAは上位8人のランキングボクサーによるトーナメント戦の優勝者を王者として認定することに決定。しかし、ジョー・フレイザー(米)は出場を拒否。WBAは報復措置としてランキングを2位から8位へ格下げした。
8月5日、WBA世界ヘビー級王者決定トーナメント戦開始。予選一試合を経て、準決勝戦を勝ち上がってきたのは、ジェリー・クォーリー(米)と、ジミーエリス(米)の二人。2位クォーリーはランキング1位のタッド・スペンサー(米)を12回TKOで破り、4位エリスは3位オスカー・”リンゴ”・ボナベナ(亜)に判定勝ち。
アリとエリス(左)。
エリスはアリと同じケンタッキー州ルイビルの出身。アリより2歳年上だが、ボクシングキャリアはアリの方が長い。アマで対戦した二人は1勝1敗と星を分けている。
オリンピックで金メダルを獲得し華々しいデビューを飾ったアリに対し、エリスの方は6人の子供を食わせるために肉体労働で稼ぐ、うだつの上がらない平凡なミドル級ボクサーでしかなく、アリが世界王座を獲得した64年までの戦績は、15勝(6KO)5敗。64年は1勝3敗と散々だった。
そんなエリスに幸運が舞い込んだ。かつてのライバル、アリの専属スパーリング・パートナーの話が舞い込んだのだ。週125ドルの契約は悪くない。アリのトレーナーには、地元ルイビルの有力者たちによって作られた後援シンジケートが選んだアンジェロ・ダンディが就いていた。
ここでのダンディとの出会いが、二流のミドル級ボクサーでしかなかったエリスを世界ヘビー級王者に押し上げることになる。
ジミー・エリス。
ケンタッキー州ルイビル。1957年2月、ダンディはウィリー・パストラーノ(米・後Lヘビー級王者)を連れて試合のためにこの地を訪れた。すでにパストラーノは、TVファイトにも出ている有名選手。ルイビルのゴールデン・グローブ・チャンピオン、アリはパストラーノが宿泊するホテルを訪問。ここで初めてアリはダンディと顔をあわせる。
パストラーノがアリとスパーリングするに及んで、ダンディはアリの優れた才能に確信を持つ。「こいつはとんでもないボクサーになるぞ」。
アリのスパーリング・パートナーとして雇われたエリスは、ただ殴られるだけでなく、テクニックを盗み、自分の力へと変えていった。そんなエリスを見ていたダンディは、自らマネジャーになることを申し出る。そして、階級を上げることを忠告した。
Lヘビー級に上げ、やがてヘビー級へと転じたエリスは、連戦連勝の負け知らずで、世界ヘビー級ランキングに名を連ねるようになった。スタイルは全くアリそっくりな、足と左ジャブ、右ストレートのアウトボクシング。
クォーリーの計量を見るエリス。
下馬評にもあがらなかったエリスと、”アイリッシュ”・クォーリーは1968年4月27日、クォーリーの地元カリフォルニア州オークランドで空位のWBA世界ヘビー級王座を賭けて対戦。
勝者はエリス。かつてコンクリート職人として3ドル50セントの時給で働き、家族を養ってきた苦労人がついに世界の頂点に上りつめた。スパーリング・パートナーに過ぎなかったエリスが、アリの王座を継いだのは大きな驚きである。それはダンディだからこそなし得た、快挙だったのかもしれない。
この時、アリは米国政府相手に孤独な戦いを挑んでいる最中。そして後年、アリとエリスが戦うはめになろうとは誰も知らない。 = 続 く =
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