WBA(世界ボクシング協会)。1921年米国の17州が集まって、プロボクシングとプロレスリング(1930年分離)の世界タイトル認定機関として発足したNBA(ナショナルボクシング協会)がその前身。WBAと名称を変更したのは、1963年。
WBA会長時代のコルドバ氏。右はスレイマンWBC会長。1976年。
選挙によって選出される会長職は、長い間、米国、カナダ勢が独占。それを打ち破ったのが日本でもおなじみのエリアス・”ドクター”・コルドバ(パナマ)氏。新会長はすぐに次の新しいルールを定めた。
『ヘビー級をのぞく各級の世界チャンピオンは、6ヶ月以内(ヘビー級は1年以内)に防衛戦を行わなければならない』
『挑戦者はランキング10位以内から選ぶ事が出来るが、6ヶ月以内に防衛戦をしなかった場合は、90日以内にランキング1位の選手と防衛戦を行う事。従わない場合はタイトルは剥奪される』
77年まで会長を務めたコルドバ氏の跡を継いだのは、巻き返しを図る米国勢力を取り込んだフェルナンド・ガリンデス(ベネズエラ)氏。以後、ベネズエラ(ガリンデス)vsパナマの仁義なき戦いの火蓋が切って落とされた。
ガリンデス(左)vsサンチェス。
79年、WBA総会はマイアミで開催された。注目の会長選挙は決選投票で32対28。わずかな差でパナマ側期待のロドリゴ・サンチェス氏が当選。以後も再選を果たし、サンチェス時代が続くと思われた82年、サンチェス氏は無念の病死。
新しい会長選挙は、ベネズエラのヒルベルト・メンドサ氏と、米国のロバート・リー氏の二人の対決。
メンドサ氏は国内の強力ライバル、ガリンデス氏によって一時は不遇な立場に立たされていたが、反ガリンデスのパナマ勢の後押しに乗せられての出馬。一方のリー氏はガリンデス氏を巻き込み、米国主導を狙う反中南米勢力をまとめた。
日本から参加したJBC小島茂事務局長は、「武士道は捨てません」とし、最終的にメンドサ氏支持を打ち出す。「メンドサ政権の中枢に入り込めれば、腐敗したWBAを立て直す事が出来る」。日本は真面目でした。ちなみに韓国は最後まで、二股の風見鶏だったとある。
選挙の結果は41対32でメンドサ氏が勝利。パナマ勢がバックについたことが勝利の要因で、日本の持っていた4票も大きくものをいった。敗れたリー氏は、その後IBFを設立する。そしてWBA会長職は、今日までメンドサ氏が務めることになる。
2008年のWBA総会ではメンドサ会長から、コルドバ氏へチャンピオンベルトが贈呈された。
2009年8月に逝去したコルドバ氏の追悼セレモニーで、感慨深げに頭をたれるメンドサ会長。反ガリンデスの旗手として担がれたメンドサ氏のバックには、コルドバ氏がまとめたパナマ勢力があった。
この当時のWBA世界戦承認料は250ドル(約5万5千円)。これを3倍の750ドル(約16万5千円)にあげる案には日本が大反対。今とは桁が違う、したがってWBAそのものに利益を確保していこうという考えは強くなかったと想像出来る。
世界ヘビー級王者。ザ・グレーティスト、モハマッド・アリ(米)。1964年、ソニーリストン(米)を破り世界ヘビー級チャンピオンに駆け上がる。しかし、7回にリストンが棄権するまで、ポイントは三者三様の同点。試合後、リストンに八百長疑惑がかけられるほど、アリの勝利は予想されていなかった。
初回KOでリストンとの再戦に勝ったアリは、無敵の快進撃を続ける。67年までに9度の防衛に成功。うち7回はKOで挑戦者を沈めている。だが、アリはベトナム戦争の最中にあった米国において、「俺はべトコンに恨みはない」と徴兵拒否。
ボクサーライセンスを停止され、WBAからは世界ヘビー級王座を剥奪された。裁判は控訴したものの有罪判決は変わらない。それでも戦うアリは、69年ニューヨーク市長を相手に「ライセンスを返せ」と告訴。70年、連邦裁は「ライセンスを取り上げたのは違法」と、アリの訴えを認める判決を出した。
一時は「非国民」とまで言われたアリに風が向いてきた。そして71年、最高裁が出した判決は『無罪』。実に3年半の時間を擁していた。
もしもこの時、アリが世界ヘビー級王座剥奪を不当のものとしてWBAを訴えていたならば、「絶対に勝つし、莫大な損害賠償金を取れる」とされたが、アリはそれをしなかった。
「全てはアラーの思し召しである」
自分の拳で、世界にたった一つしかない世界ヘビー級チャンピオンの座を取り返そうと決めたアリは素晴らしい。
次回より、アリから剥奪した世界ヘビー級王座の流れと、WBAを訴えなかったアリがベルトを取り戻すまでの歴史を振り返りたいと思います。 = 続 く =
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