モハマッド・アリのアゴを割った男として知られる、元WBC世界ヘビー級王者ケン・ノートン。ライバルのアリとは1勝2敗の負け越しとなっているが、いずれも大接戦で、その判定は論議を呼ぶものでした。
1973年3月31日米カリフォルニア州サンディエゴでのノンタイトル12回戦。アリは第1ラウンドにノートンのパンチでアゴを砕かれた。それは、かすったように見えたパンチだった。

1976年9月のアリとの第3戦は、世界ヘビー級タイトルを賭けての試合。初戦で15万ドル(1500万円)だった挑戦者ノートンの報酬は、グッとあがり110万ドル(3億3千万円)が最低保障。(当時のレート)
ニューヨーク・ヤンキースタジアムで行なわれた試合はラウンド・システム。数字による採点ではなく、各ラウンド優勢者の名前をスコアカードに記し、抑えたラウンドが多い方が勝者となる当時のニューヨーク州スタイル。
スコアは、8-7、8-7、8-6の僅差で、王者アリが辛くも防衛を果たした。しかし、・・・・。
「アリがノートンに勝ったというのだったら、日本も第2次世界大戦で勝ったろう」
「アリはジャッジの判定では勝ったかもしれないが、試合は明らかにノートンのものだ」
勝者アリは、「競馬のハナ差でも勝ちは勝ち。野球の1点差でも勝ちは勝ちなんだ」と主張するが、王様アリに、「ハナ差でも勝ちは勝ち」は似合わない。そして試合の3日後には、何と『引退宣言』を出す。最もこれはすぐに撤回されたが。
とにかくノートンは、この試合での判定負けで実力を世界に示した。その後アリはノートンとの4度目の対決を避け、1978年2月15日、プロキャリア8戦目のレオン・スピンクスを挑戦者に選ぶ。賭け率7-1。戦前、圧倒的優位を伝えられたアリは敗れ王座を去ることになってしまう。
WBCは初防衛戦でスピンクスにノートンとの対戦を義務付けたが、スピンクスのプロモート権を持つボブ・アラムは、商売になるアリとのリマッチを選択。
WBCはスピンクスとの防衛戦を承認するにあたり、アリに対し1位ノートンと2位ジミー・ヤング戦の勝者と対戦することを義務付けた。同時にもし、これに応じない場合は、ノートンvsヤング戦を王座決定戦とすることも決議されていた。

こんな経緯で、アリvsスピンクス第2戦が決まると、WBCは即座にスピンクスの王座を取り上げ、1978年3月18日、スライマン会長がノートンをヘビー級王者として認定することを発表。WBC実行委員会の投票は15対2(棄権1)であった。
この後押しをしたのがドン・キング。キングはノートンの初防衛戦に秘蔵っ子ラリー・ホームズをぶつける。
そして、運命の最終ラウンド、わずか1ポイントの差でノートンは王座から滑り落ちる結果に。失意のノートンはこの後下降線をたどり、再び這い上がることは出来なかった。
世界戦未勝利。しかし、記憶に残るボクサーでした。ご冥福をお祈り申し上げます。
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