WBAホームページに1972年8月に行なわれたフェザー級タイトルマッチ。王者アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)vs挑戦者エルネスト・マルセル(パナマ)の試合動画がアップされている。
71年9月、東京で西城正三(協栄)選手から王座を強奪していったゴメスの2度目の防衛戦である。西城vsゴメス戦は指名試合。これを先延ばしにしようとした西城陣営は、一度はWBAから王座を剥奪されるという事態に陥る。
あわてて渡米した協栄ジム金平正紀会長は、なんとかゴメス側と契約し王座は元の鞘に戻ったもの、ゴメスのファイトマネーは相場の二倍の1万5千ドル(540万円)。他にベネズエラへのTV放映権利もタダという大きな代償を支払わされた。
そして”最強の挑戦者”は噂通りの強さを見せ、チャンピオンベルトを手土産にベネズエラへ帰っていった。ただし、帰国のために羽田空港に現れた新王者は、ビールの飲みすぎでへべれけ状態であったという。
ゴメスは2ヶ月後のメキシコ遠征で、無名のラウル・マルチネス・モラ(メキシコ)にアッサリと敗れる(ノンタイトル)。王座を賭けた再戦は勝利したものの、このマルセル戦で王座転落。最強といわれたゴメスの王座は1年と持たなかった。
「中南米辺りの強いのは、チャンピオンになるとすぐにいい気になっちゃうからね」('-^*)/
その後、元世界王者ゴメスは元の港湾労働者に戻った。
マルセルは71年11月、松山市のラグビー場でWBC世界フェザー級王者柴田国明(ヨネクラ)選手に挑戦。際どい試合。なかなか出ない判定結果。放映したフジTVは「マルセル王座奪取!」とテロップを流し、新王者誕生を告げ放送終了。だが、正式結果は引き分け。とんだミソをつけてしまった。
マルセルはこの試合の印象がよほど強かったのか、生まれた息子にクニアキ・シバタという名前を付けている。初防衛に成功した元バスケットボール選手は、その後ベネズエラへ遠征するが、地元のレオネル・エルナンデス(上原康恒選手のV1戦相手)に微妙な判定負け。
しかし、立ち直ったマルセルはゴメスを返り討ちにし、ノンタイトルで若きサムエル・セラノ(プエルトリコ)を降す。そして、4度目の防衛戦でアレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)に勝ったリング上で引退を発表。自国のファンを大いに驚かせた。
世界チャンピオンとしての努力を、継続して続けていくことも難しいものです。
辛くもマルセルから王座を護った柴田選手は、半年後、”最強の挑戦者”クレメンテ・サンチェス(メキシコ)を迎え、3度目の防衛戦に臨む。サンチェスは、柴田陣営が待ち料10万ドル(3600万円)を支払って対戦を先延ばしにしていた。
10万ドル払って別に選んだ挑戦者がマルセルだったというのは、なんとも皮肉な話。
次にサンチェスとやるハメニなったのは、『チャンピオンになってから1年以内にトップ・コンテンダーと防衛戦をしなければならない。1ヶ月以内に契約しなければタイトルを剥奪する』というWBCからの至急電報が原因。
「違約金も払ったし、制約されるものは何もないはずだ」は通用しなかった。その結果、柴田選手はアッサリと王座を手放してしまう。
圧倒的KOで世界王者となったサンチェスはすっかり有頂天。金も入り、とたんに練習に身が入らなくなる。「俺に勝てるやつはいない」。
ただしそれは、チャンピオンになっても努力を続けての話。すっかり遊び人と化した王者は、4ヵ月後の初防衛戦でウェイトを作れず、戦う前から無冠に。試合ではホセ・レグラ(キューバ→スペイン)に13度のダウンを奪われ10回KO負け。
さらに王座転落から6年後の78年12月、サンチェスは射殺されるという非業の死を迎えねばならなかった。
レグラは初防衛戦で37歳になっていた”黄金のバンタム”エデル・ジョフレ(ブラジル)に王座を明け渡すことになる。
さて、先頃、”墓場から出てきたような選手”に名をさしめた元2階級制覇王者ロベルト・バスケス(パナマ)の敗因も、舐めきって練習していなかったことにあるようです。
いくら”最強”でも、この世界、舐めたら終わりである。もちろん、良い意味での”かんちがい”は、素直な選手を強くするのだが・・・。
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サンチェス、ゴメス、マルセル 世界フェザー級王者 栄光と没落!
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