「アパツィンガンから誕生した世界王者。リカルド、レネのアルレドンド兄弟を知っていますか?」
地元記者から北米タイトル挑戦者白石豊土(協栄)選手に質問が飛んだ。マズイ!(^_^;)
それなりに答えた(するしかない)白石選手を、通訳の古川久俊氏(メキシコシティ在住)が救ってくれた。
「浜田剛史選手と2度に渡り戦ったレネ・アルレドンドの強さは知っています。・・・・」
これは大いに受けた!(^O^)/
「白石、お前アルレドンド兄弟って知ってるの?」(;^_^A
「・・・知りません」(^_^;)
やっぱり。ヽ(;´ω`)ノ
先に説明しておくべきであった。時代の流れは早いもので、今の選手がレネを知らないとは(知っている人はたくさんいるとは思いますが)。
1986年7月24日、新装なった両国国技館で行なわれた初の世界タイトルマッチが、WBC世界Sライト級王者レネ・アルレドンド(メキシコ)vs挑戦者浜田剛史(帝拳)の一戦。「この人(大竹マネジャー)がその時、レネのセコンドに付いたんですよ」と続けたら会見はさらに盛り上がったに違いない。('-^*)/
25歳のレネは初防衛戦。35勝(33KO)2敗と抜群のKO率を誇る180センチのパンチャーで、ここ1年の間に不敗の世界ランカー二人をKOしている実力者。わずか1ラウンドで終わった試合ですが、すごい試合でした。場内の興奮、大歓声は、まさにシビれるといった感じ。
アパツィンガン会場近くにあったボクシングジムの壁には、レネの大きな肖像画が描かれていました。
さて、オールドファンに忘れられないのがレネの実兄で元WBC世界Sフェザー級王者のリカルド・アルレドンド。沼田義明(極東)選手から世界王座を奪ったリカルドは、合計7度も日本のリングで戦い、拳一つで8人の兄妹達の面倒を見た。
左からリカルド、レネ、ロベルト(千葉・元日本王者)、リカルドSr。
しかしその反面、試合前に彼女を呼び寄せベッドで一緒のところを写真に撮らせるなど、彼の破天荒ぶりは日本ファンのひんしゅくを買ったのも事実。減量苦も毎度お馴染みで、日本の挑戦者には「ひょっとしたら」、「今度こそ」の期待がかかったものである。
「リカルドさんのスタミナの秘密がわかった気がします。こんなに暑いところで育ったなら、体は強くなりますよ」
アポロ嘉男(親和)選手の挑戦を受けた時は、試合前の1週間は1日1食。それも野菜サラダだけ。それでも、ノラリクラリの得意のボクシングでアポロ選手を一蹴。日本の関係者を大いに悔しがらせた。
アルレドンドvs柏葉。
ノンタイトル戦で連敗したかと思うと、柏葉守人(野口)選手をアッサリKOしてリカルド健在を見せ付ける。それでも美味しい王者と見られたリカルドには、日本の関係者がチャンスを求めて対戦オファーがひっきりなし。
柏葉戦の後、門田新一(三迫)選手とのノンタイトル戦が発表されたが、正式契約がまだだった隙をついて上原康恒(協栄)選手が対戦権を獲得。見事に判定勝ちし、世界ランキング入りを決めた。
次は王座を賭けて対戦のはずだったが、当時、仲の良かった金平=米倉ラインは、柴田国明(ヨネクラ)選手を次の挑戦者とした。
リカルドの減量苦はますますひどく、柴田戦の前は1日にゆで卵1個だけという日が1週間続く。そして試合では柴田選手の左のスピードに完敗。上原選手の「勝ったらお願いしますよ」という話しはついに実現せず、上原選手は「くさってしまいましたよ」ということになる。
リカルドが世界王座を失った後の再起戦の相手は、あのアルフレッド・エスカレラ(プエルトリコ)。以後5年間戦い続けたリカルドのラストファイトは、ソウルでの 金 相賢(韓国)戦。なんとも日本のリングと縁の深い選手でした。
アパツィンガン。
リカルドが42歳で亡くなってから、もう22年が経つ。まさか、アルレドンド兄弟の故郷へ行くことになろうとは思っても見ませんでした。
アルレドンド兄弟のおかげで、日本人”トヨト”も大歓迎されたように思います。
応援、深く感謝です!→
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