19日、元48代横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが72歳で逝去された。謹んでご冥福をお祈り申しあげます。
『巨人、大鵬、卵焼き』
古い人間にとっては、不滅のフレーズである。
納谷氏の訃報を伝えるスポーツ報知紙は、1963年元旦付け紙面にに使用された写真を掲載。不滅の大横綱大鵬関と、巨人軍 王 貞治選手、そして世界フライ級王者ファイティング原田選手の3人が並んでいる。
大鵬関は1956年、16歳で大相撲の世界に入り1971年の引退まで、途中休場以外で負け越したのは一度だけ(7勝8敗)、幕内優勝通算32回はいまだ破られずという、圧倒的強さを誇った。
「正月企画では、必ず私と大鵬さんと、巨人軍の選手が顔を合わせていましたね」
原田氏は、「私の支えだった」と追悼のコメントを贈っている。
1961年に横綱昇進した大鵬関は、60年代の大ヒーロー。樺太からの最後の引き上げ船で北海道に渡った納谷氏は苦難の少年時代を送るるが、16歳の時、北海道巡業にやって来た大相撲が角界入りのきっかけ。
横綱昇進後、引退が取りざたされた場面は、一度や二度ではなかったが、厳しい稽古が、幾たびのケガを乗り越えての記録達成につながった。
原田氏は「自分には才能がない。人の二倍、三倍やらないと、とても追いつかない」と、常に厳しいトレーニングを課した。笹崎会長にして、「原田とのトレーニングは戦いだった」と語っている。
「こっちも、このやろうという気持ちでぶつかった」(原田氏)
王選手は、甲子園優勝投手から大いに期待され巨人軍入りするも、「投手としては大成しない」と言われ打者転向。しかし、「王は王でも、三振王」と呼ばれる始末で、プロ3年目には、トレード話しもあったほど。
真面目という表現しか浮かばない王選手だが、当時は寮を脱走して夜遊びに出ることしばしばで、精神的弱さが結果につながらないといわれた。そんな時、、荒川 博 氏が巨人軍の新コーチとしてやってくる。
その後二人は、「見学に訪れた人間全員が、思わず正座して観ていた」という程の厳しい練習を繰り返し、”一本足打法”を編み出していく。
20日の読売新聞に、「厳しい人は親身でもある。苦言は人生訓。それが、稽古場で学んだ私の人生訓です」との大横綱・大鵬関の言葉があった。
ともすれば、厳しさが忘れられがちな昨今。
厳しさを逆返しにする、頑張る心、大切ですね。
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