タイで前WBC世界フライ級王者チャチャイ・チオノイ(タイ)を後一歩まで追い込み、引き分けたスナッピー浅野(笹崎)選手は、生涯50戦してKО勝利は僅かに一度。しかし、タフでスタミナがあった。
「僕がダウンしたことがない、タフだといわれるのも、原田さんの後について走りこんだからです」
尊敬してやまない2階級制覇王者ファイティング原田(笹崎)選手に憧れ笹崎ジムへ入門。腕を上げた浅野選手は、キャンプに帯同しスパーリング・パートナーを務めるようになる。
「あの右クロスを左あごにくったときには、右足が爪先までしびれてびっくりしたけど、何クソッ原田さんだって同じ人間だって思って、頑張ったことがあります。そういうのが、みんな僕の栄養になったんですね」
タイ遠征後は、強打の綿貫誠一(キング)選手と引分け。そして、元日本バンタム級王者大木重良(青木)選手との2連戦で1敗1分。71年12月17日、再びタイへ渡った浅野選手は、後のWBC世界フライ級王者ベニス・ボーコーソー(タイ)とグローブを交えるも判定負け。
そして休む間もなく、年が変わった72年1月29日には韓国・ソウルへ遠征し、東洋バンタム級王者 張 奎喆(韓国)へ挑戦。この試合は、「はっきり勝っていたと思っていたのに、負けになって悔しかった」という内容。
勝ち星には恵まれないが、試合には恵まれた浅野選手は4月1日、あのモハマッド・アリ(米)vsマック・フォスター(米)戦が行われた日本武道館のリングに登場する。アリの前座で6回戦を戦った浅野選手は、13ヶ月ぶりの勝利を味わう。この時の相手も、後の日本バンタム級王者黒沢元三(野口) 選手としょっぱかった。
この白星に気を良くした浅野選手は、6月18日、日本バンタム級王者内山真太郎(船橋)選手へ挑戦。大いに自信を持っての挑戦だったが、僅差の0-2判定負け。
さすがの浅野選手も、「もうやめよう」という気になったが、敬子夫人の「タイトルを取るまで二人で頑張ろう」の言葉に励まされた。
実は浅野選手の結婚は、鬼の笹崎会長には内緒。笹崎ジムとは東急東横線『学芸大学駅』を挟んで、僅か100メートルばかりの近所で、新婚生活を始めていたのである。
「よく、ばれなかったなァ」(^_^;)
実はこの頃、牛若丸原田、ライオン古山、サルトビ小山らの笹崎ジムを代表する選手達は、皆揃って会長に内緒で結婚していた。鬼より怖い笹崎会長には、誰も「結婚したい」などと言い出せなかった。
ところがある日、小山選手の結婚がバレれ、笹崎会長の強烈なカミナリが飛んだ。小山選手と仲の良い浅野選手は怖くなり、「どうせ怒られるなら、こっちから先に謝っちゃおう」で、敬子夫人に「一つや二つ、殴られる覚悟しておけ」と因果を含め、おっかなビックリで笹崎会長の前にまかり出た。
「何だ浅野、お前もか。時世だなァ」(^_^;)
鬼の笹崎は怒らなかったが、浅野選手は「本当に申し訳ないと思いました」。
1971年7月11日。告白から10日後に笹崎会長の命令で結婚式を挙げた浅野選手。
「ようやく二人で外を歩けるなァ」(^-^)/
そんな浅野選手が王座を獲得するのは、1973年6月8日。同僚サルトビ小山選手が網膜はく離によって返上した日本Sバンタム級王座を、1位江藤清一(熊谷)選手と争い、執拗なボディ攻撃で、若手期待のストレート・パンチャー江藤選手の強打を空転させる、浅野選手らしい10回判定勝利。
わけのわからぬ叫び声を上げた新王者は、感激のジャンプ。
デビュー8年目。47戦目にしてようやく念願の日本タイトル獲得。
「今日は家内の敬子の24歳の誕生日なので、何よりのプレゼントができてうれしいです」
「タイトル取るまでがんばろう」と励まして来た敬子婦人の目に涙が浮かぶ。
苦節8年・・・努力の男に遅い春!
デビューは小山選手より1年早かった浅野選手。後輩の前王者小山選手は、ラストファイトで江藤選手に敗れいるだけにうれしそう。笹崎会長は、ホッとしたといった感じ。
浅野選手はこの王座を2度防衛した後、岡野正治(ヨネクラ)選手に敗れ王座を失う。そして潔くグローブを壁につるした。
31勝(1KO)11敗8分。
「打ち合いには絶対負けない自信がある!」
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