メキシコへ遠征した日本フェザー級6位玉越強平(千里馬神戸)選手は、10日(日本時間11日)、WBC世界Sフェザー級1位ダンテ・”クレイジー”・ハルドン(メキシコ)を3回1分41秒痛烈なTKOに降す大殊勲の星を挙げた。
23歳のユース王者に、30歳の玉越選手が勝った。この試合はWBC同級ユースタイトルマッチとして開催されている。30歳のユース王者誕生である。この王座は日本での防衛戦が認められている。べルトを巻いた玉越選手の勇姿が見られることだろう。
いかにこの勝利が衝撃的であるか。
身長171センチの”クレイジー”・ハルドンは、これまで19戦全勝。17度のKO勝利のうち、初回KOが7度、3回以内に勝負をつけた試合は実に15度という大変なハードヒッターだったのである。
西城正三選手。
海外遠征。シンデレラボーイ西城正三(協栄)選手に代表されるように、日本人選手も舞台が変わり、心機一転。不利だと思われがちな海外リングで、思わぬ大成果を挙げることも珍しくなかった。しかし、後一歩で大魚を逃した選手の方が気になる。(^_^;)
そんな一人が元日本Sバンタム級王者スナッピー浅野(笹崎)選手。先輩ファイティング原田選手の厳しい地獄のキャンプについてまわり、「根性じゃない、努力だよ」と教わったという。
古いファンの皆様には、元世界フライ級王者大場政夫(帝拳)選手の新人王の夢を打ち砕いた男といった方が、わかりやすいかもしれない。1967年のフライ級新人王予選で、浅野選手は後の世界王者に引分け勝者扱い。その勢いで全日本新人王の座をも射止めている。
新人王戦前までは、3連敗(2引分けを含む)と、5戦勝ちに見放されていた浅野選手の新人王は、努力の賜物そのものだろう。
1969年7月、原田選手のフェザー級タイトル挑戦。ジョニー・ファメション(豪)第1戦では一緒にオーストラリアへ遠征。原田選手は世紀の大誤審に泣いたが、浅野選手は日本にも御馴染みのレイ・ペレイズ(米)に判定勝利を飾っている。
その後、日本バンタム級3位までランキングをあげていた1971年4月19日、浅野選手はタイ・バンコクへ遠征。前WBC世界フライ級王者チャチャイ・チオノイ(タイ)と対戦のチャンスを得る。
チャチャイと大場選手。
1970年12月、試合はエルビト・サラバリア(比)のカウンターの前に2回TKO負け。思わぬ王座転落を喫していたチャチャイの再起戦で、前WBC王者は、「今度は大場のWBAタイトルを狙う」と公言してはばからなかった。
くしくも、大場選手の最後の対戦相手となるのは、まだ先のこと。
試合は初回から波乱が起きる。これまで37戦26勝6敗5分でKO勝利は僅か一度という浅野選手の、右から返しの左フックがものの見事に決まると、前王者はもんどりうってダウン。しかし、レフェリーはスローカウント。チャチャイはカウントナインでようやく立ち上がりかけた。
かさにかかって打って出た浅野選手だが、惜しくも終了ゴングに逃げ切られた。2回開始ゴングが鳴ってもチャチャイはコーナーを立たない。スワッ、浅野選手のTKO勝ちかと思われたが、レフェリーにシブシブ立たされたといった感じで、試合は続行される。
その後も浅野選手ペースで試合は進んだが、前王者も中盤以降さすがに意地を見せ追い上げた。試合は既定の10ラウンドを終了。オールタイ人のオフィシャルが出したスコアは、47-45、45-46、46-46。三者三様の引き分け。
しかし、あの時代のタイである(今も厳しいでしょうが)(^_^;)。これは勝利といって間違いなかろう。
チャチャイはこの試合後、一度は引退宣言するほどであった。
笹崎会長の命名で”スナッピー”のリングネームを与えられた浅野選手は、原田選手ゆずりの素晴らしい連打攻撃を得意とした。そのスタミナは日々の努力と、原田選手に帯同したキャンプトレーニングの成果。
一発の決め手に欠くといわれた浅野選手だったが、「僕は打ち合いでは絶対負けない自信がある」。そして、「それは原田さんのお陰です」と付け加える。
「これからはむやみに打たず、的確なパンチが打てるよう努力します」
しかし、前世界王者と引き分けた浅野選手は、この試合を含め6戦、1年以上も白星から遠ざかることになる。ただし、相手は皆自分より上位の選手ばかり。だが、この厳しい星勘定のキャリアが、浅野選手を大きく育てる結果となっていく。 = 続 く =
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