最近では試合実績がなくても3位まで躍進できることがわかったWBAランキング。バンタム級3位ジョン・マーク・アポリナリオ(比)はここ1年半で、2ラウンド(6回戦)しか戦った記録がない。ランキング移動の定義も、もはや風前の灯である。
1970年12月。WBAランキングは威厳を保っていた。
柴田国明。
メキシコで世界フェザー級王者ビセンテ・サルディバル(メキシコ)に挑戦する、日本フェザー級王者柴田国明(ヨネクラ)選手は同級9位。サルディバルはWBAでは3位。王者は西城正三(協栄)選手である。
1位に指名挑戦者アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)。西城戦までのゴメスは全く強く。挑戦者としては破格な条件で来日し、狙い済ました右の強打で王座を強奪していった。しかし、試合翌日帰国のため羽田空港に現れた新王者は、ビールの飲み過ぎでへべれけ状態。
目的を達成したゴメスの王座防衛記録は1度だけで終わる。ゴメスから王座を奪うことになるエルネスト・マルセル(パナマ)は、このとき8位にランクされている。
2位はフランキー・クロフォード(米)。2度に渡り西城選手の王座に挑むも、いずれも失敗に終わっている。4位にエデル・ジョフレ(ブラジル)。”黄金のバンタム”は、1年半後、WBC世界フェザー級の王座を制する。
5位に元WBC王者ホセ・レグラ(スペイン)。後、柴田選手からWBC王座を奪ったクレメンテ・サンチェス(メキシコ)から王座奪回。そして、この王座はジョフレの手に移ることになる。
6位にあのロベルト・デュラン(パナマ)。
「先輩の時、もうデュランがランキング入っていたんですねェ」(^O^)/
「ア~、やらなくて良かった」('-^*)/
軽いジョークで笑わせてくれる西城先輩です。
70年5月。まだ18歳だったデュランは、マルセルに10回TKO勝ちの記録がある。あのやりにくいマルセルをストップしているデュランは、若い自分から別格ですね。
7位ラウル・クルス(メキシコ)。WBC王者となった柴田選手の初防衛戦相手を務め、初回で粉砕されることになるが、それほど簡単な相手ではなかった。10位に元1位ゴドフリー・スチーブンス(チリ)。
1位~10位のうち、7人までが世界チャンピオン(WBC含)になり、残る3人も世界王座挑戦者である。ランキングがひとつ上がった、下がったで大騒ぎしていた時代。世界ランキングとはそういうものであった。
当時の日本世界チャンピオンのギャラは、多くて5万ドル(1800万円)といわれている。海外では世界ヘビー級王者ジョー・フレージャー(米)vs挑戦者モハマッド・アリ(米)の、夢の対決が実現することになった。
『徴兵拒否』の非国民から一転、ベトナム戦争の長期化に伴い国民感情が反政府になびいたこと、長い裁判の末に無罪を勝ち取ったことで、アリはオリンピック金メダリストというだけでは、到底ものに出来ない知名度を得ていた。
アリvsフレージャー・ボクシングビジネスを変えた世紀の一戦!
両選手のファイトマネーはそれぞれ250万ドル(9億円)。過去、ボクシング以外のどんなスポーツを含めても、個人にこれだけの報酬が支払われた例はない。まさに空前絶後のスポーツイベント。その始まりはボクシングだった。
70年代のWBA世界戦承認料は250ドル(約5万5千円)。これを3倍の750ドル(約16万5千円)にあげる案には日本が大反対し、他国もこれにならったという、今では笑い話みたいな時代。
しかし、世界タイトルの重みは今とは全然違い、世界にランキングされるボクサーはステータスだった。変わりましたねェ。(^_^;)
悪代官と、○州屋がたくらんで、利益の独り占めを画策し、力のない者は除外する。黄門様は、やってきそうにありません。そんな感じですか。(^_^;)
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