1972年1月16日、2連敗中だったガッツ石松(ヨネクラ)選手は、試合6日前に来たピンチヒッターの話を受諾し、WBA世界ライト級王者ケン・ブキャナン(英)への挑戦が内定していた門田新一(三迫)選手の持つ東洋王座に挑戦。そして、誰もが驚く大番狂わせで王座を強奪してしまった。
ガッツ石松 ”代打逆転満塁本塁打" vs門田新一 「運命!」
デビューから4連勝を記録したかと思ったら、1分を挟んで3連敗。それでも、2度目の新人王チャレンジで見事に全日本新人王を獲得。勝負強いところを見せた鈴木有二選手のリングネームが、鈴木石松と変わったのは、東日本の決勝戦(不戦勝)を迎える前のこと。
当初は同僚の羽切義明選手が、”石松”羽切、鈴木選手が”サムライ”鈴木となるはずだった。しかし、どうも鈴木選手のキャラクターは、清水次郎長の子分、”森の石松”にダブるという事で逆転。リングネームを考えてくれた後援者の夫人が清水市出身だった事も影響した。
調子に乗りやすく、おっちょこちょいというのが、”森の石松”のイメージであるが、全日本新人王を獲得した石松選手は、その後3戦勝ち星なし。どうも、調子に乗ると一息ついてしまう気分や的なところは、”森の石松”とダブる。
気分をれ変えた石松選手が、最初のビッグチャンスをものにしたのは、1970年1月の東洋ライト級王者ジャガー柿沢(中村)選手とのノンタイトル戦。
34勝(4KO)2敗2分。11連勝中(1分含)の柿沢選手には世界挑戦の話もあり、ほんの小手調べのつもりの試合だったが、”真面目男”(柿沢選手)は、石松選手に煮え湯を飲まされる。
3度目の10回戦で東洋王者を喰った石松選手は、次戦で世界ライト級王者イスマエル・ラグナ(パナマ)挑戦のチャンスを手に入れた。恐るべき強運である。しかし、「海外へ行けるのがうれしくて、最初から勝とうなんて思わなかった」とは、いかにも石松選手らしい。
一方、敗れた柿沢選手は世界への夢が絶たれ、よほど気落ちしたのだろう。その後はさっぱり勝てなくなり8連敗を記録することに。
ラグナ戦で、「世界戦で13回まで持った。”やれば”俺も捨てたもんじゃない」という変な自信をつけた石松選手だが、相変わらず欲はない。
70年10月10日、オーストラリアで元世界バンタム級王者ライオネル・ローズ(豪)に10回判定負けを喫するが、29日にはホノルルへ飛びWBC世界Sフェザー級王者レネ・バリエントス(比)とノンタイトル戦(定負け)。
ひと月で2敗はめったにある事ではないが、「海外へ行けてゼニになる。こんないい事はない」と、石松選手はご満悦。確かに、僅かひと月の間に豪州とハワイへいける人は、現代でもそうはいないのであるが・・・。f^_^;
3度の海外遠征を経験した石松選手は、71年3月、日本ライト級王者高山将孝(P堀口)選手
の持つ王座に挑戦。東京オリンピック代表からプロ入り、将来を大いに嘱望されていた王者と真っ向から渡り合い大善戦。ここでも勝負強いところを見せたが、結果は引き分けに終わる。
そしてこの年、東洋ライト級王者門田新一(三迫)選手に、「暑さでまいって」敗れ、続いての韓国遠征で、東洋Sライト級王者 李 昌吉(韓国)には判定負け。気がつけば10敗目で、このあたりで「やっぱりチャンピオンは無理か?」と考える選手もいる所だが、石松選手は違った。
ファイトマネーだけを生活費に、「金の尽きるころに試合があったので、なんとか、その日暮らしでやれって来れた」という石松選手は、正月に散々遊んで来たことはお構いなしに、試合6日前の代打要請を受けた。「タイトルがかかっていた」が故にである。
試合が始まったら、不思議に頑張っちゃった結果、東洋王座を強奪した石松選手は、ラグナからは「左が世界を制する事」、ローズからは「ストレートの効果」、バリエントスからは「ここ一番のタイミング」を学んだと、これまでのキャリアは無駄でなかったことを証明した。
そして新王者は、「人に勝つより、自分に勝つようなコンディション作りが課題」と抱負を述べ、「会長はまた世界へ挑戦させてくれると言ってるけれど、自分としては東洋を防衛して金を稼ぎたい。そうすれば、自然と世界への道も開けてきますからね」と、しっかり将来設定。
相変わらず、世界への欲はそれほど感じられないのだった。 = 続 く =
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