昭和37年大晦日。2年前、東日本フライ級新人王決勝戦でファイティング原田(笹崎)選手に敗れて以来、連勝街道を驀進していた海老原博幸(協栄)選手は、京都に於いて後の世界フライ級王者チャチャィ・チオノイ(ラムフェーバー・タイ)と対戦。
チャチャィは17歳から日本のリングに上がり、揉まれて強くなった。矢尾板貞夫(中村)選手引退後、空位となっていた東洋フライ級王座を獲得。海老原戦は初防衛戦。
大場政夫戦でのチャチャイ。
しかし、チャチャイは4度はかりに乗るも正規ウェイトを作れず53.2キロのバンタム級。戦わずして王座を喪失したチャチャイに対し、フライ級リミットで計量をクリアしていた海老原選手は、「勝てば東洋チャンピオン」という試合。
試合は12回を戦い抜き、海老原選手が判定で勝利。新東洋王者と認められた。しかし、試合後数日経ってからタイ側は、この試合で2オンスのグローブハンデを付けられたことにクレーム。一転、海老原選手の王座は認められず、王座は空位とされた。
当日計量で2.4キロのウェイト差。グローブハンデは当然ありなのだが、タイトルマッチであったことが付けいる隙を与えてしまった。
海老原博幸選手。
さて、何事もくよくよ考えない海老原選手は、新年を京都で東洋チャンピオンとして迎えた。「次は世界だ!」。22歳の新王者は、さぞかしご機嫌だったことだと想像できる。
「金元、面白い話があるんじゃがのォ」('-^*)/
「海老原さんが京都で東洋タイトルやったとき、わしと宮下(功・元沖ジム会長)も一緒に試合しての。わしと海老原さんは、電車賃だけ残して全部競馬で勝負しよったんよ」(^-^)/
「だけどの、全部やられて、すってんてんになってしもうたんよ」('-^*)/
話の主は協栄ジムOBの山村若夫大先輩である。立教大学から協栄ジム入りした山村選手は、当時珍しい学士ボクサーだった。金平正紀・協栄ジム先代会長とは同郷の広島出身。昭和38年正月、京都競馬場では、「迎春賞」(後、京都金杯)が創設されていた。
山村先輩(右側)と矢尾板貞夫氏とはスパーリング・パートナーを務めた関係で今でも大変親しい関係である。
「チャチャイは、きれいな日本の彼女ついておってのォ。あれは可愛らしい顔しておったからのォ」(^-^)/
海老原選手のキャンプにもよく同行したという山村先輩。
「しかし宮下、わしらスタミナなかったのォ」(^O^)/
「だけど、宮下は会長とか新聞記者が来よる時だけ、わしを抜いて行くんよ。わしは後から会長に怒られてからに・・・」(;^_^A
「フィリピンの選手とかとやっても百万円くらいのギャラがあった」(海老原選手)
古き、よき時代。豪快な先輩たちでした。
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